に自家撞着《じかどうちゃく》に陥るのを以て見ても分る。因果律は世界に始がなければならぬと要求する。しかしもしどこかを始と定むれば因果律は更にその原因は如何《いかん》と尋ねる、即ち自分で自分の不完全なることを明にしているのである。
[#ここで字下げ終わり]
 終りに、無より有を生ぜぬという因果律の考についても一言して置こう。普通の意味において物がないといっても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在しているのである。無というのを単に語でなくこれに何か具体的の意味を与えて見ると、一方では或性質の欠乏ということであるが、一方には何らかの積極的性質をもっている(たとえば心理学からいえば黒色も一種の感覚である)。それで物体界にて無より有を生ずると思われることも、意識の事実として見れば無は真の無でなく、意識発展の或一契機であると見ることができる。さらば意識においては如何、無より有を生ずることができるか。意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべき者ではなく、従って機械的因果律の支配を受くべき者ではない。これらの形式はかえって意識統一の上に成立するのである。意識においては凡てが
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