く考えて見れば直にその首尾貫徹せぬことが明になる。或一派の哲学者に至ってはこれと違い、経験的事実を以て全く仮相となし、物の本体はただ思惟に由りて知ることができると主張するのである。しかし仮に我々の経験のできない超経験的実在があるとした所で、かくの如き者が如何にして思惟に由って知ることができるか。我々の思惟の作用というのも、やはり意識において起る意識現象の一種であることは何人も拒むことができまい。もし我々の経験的事実が物の本体を知ることができぬとなすならば、同一の現象である思惟も、やはりこれができないはずである。或人は思惟の一般性、必然性を以て真実在を知る標準とすれど、これらの性質もつまり我々が自己の意識上において直覚する一種の感情であって、やはり意識上の事実である。
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 我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、ただ思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。
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 思惟と直覚とは全く別の作用であるかのように考
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