点と同一になる)。
[#ここで字下げ終わり]
意識上における事実の直覚、即ち直接経験の事実を以て凡ての知識の出立点となすに反し、思惟を以て最も確実なる標準となす人がある。これらの人は物の真相と仮相とを分ち、我々が直覚的に経験する事実は仮相であって、ただ思惟の作用に由って真相を明にすることができるという。勿論この中でも常識または科学のいうのは全く直覚的経験を排するのではないが、或一種の経験的事実を以て物の真となし、他の経験的事実を以て偽となすのである。たとえば日月|星辰《せいしん》は小さく見ゆるがその実は非常に大なるものであるとか、天体は動くように見ゆるがその実は地球が動くのであるというようなことである。しかしかくの如き考は或約束の下に起る経験的事実を以て、他の約束の下に起る経験的事実を推すより起るのである。各《おのおの》その約束の下では動かすべからざる事実である。同一の直覚的事実であるのに、何故その一が真であって他が偽であるか。此《かく》の如き考の起るのは、つまり触覚が他の感覚に比して一般的であり且つ実地上最も大切なる感覚であるから、この感覚より来る者を物の真相となすに由るので、少し
前へ
次へ
全260ページ中61ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング