」は小書き]は吾人の心即アートマン Atman である。このブラハマン[#「ハ」は小書き]即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。基督《キリスト》教は始め全く実践的であったが、知識的満足を求むる人心の要求は抑え難く、遂に中世の基督教哲学なる者が発達した。シナの道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗《すこぶ》るこの傾向がある。これらの事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のある事を証明するのである。欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテース、プラトーを始とし教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に長足の進歩をなすと共に知識と情意との統一が困難になり、この両方面が相分れるような傾向ができた。しかしこれは人心本来の要求に合うた者ではない。
[#ここで字下げ終わり]
今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡《すべ》ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には
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