ある。また実在を直視するというも、凡《すべ》て直接経験の状態においては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、独り知的直観の場合にのみ限った訳ではない、シェルリングの同一 Identitat[#「a」はウムラウト(¨)付き] は直接経験の状態である。主客の別は経験の統一を失った場合に起る相対的形式である、これを互に独立せる実在と見做《みな》すのは独断にすぎないのである。ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚というものも天才の特殊なる能力ではない、かえって我々の最も自然にして統一せる意識状態である、天真爛漫なる嬰児の直覚は凡てこの種に属するのである。それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層深く大きくした者にすぎない、即ち意識体系の発展上における大なる統一の発現をいうのである。学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒を得るのも凡てかかる統一の発現に基づくのである(故に凡て神秘的直覚に基づくのである)。我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、而してこの
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