かなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるという迄である、実際の欲求はその時に与えられるのである、或一の動機が発展する場合には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するかこれを予知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機が即ち我である。普通には欲求の外に超然たる自己があって自由に動機を決定するようにいうのであるが、斯《かく》の如き神秘力のないのはいうまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であって、自由の決定とは思われぬのである。
上来論じ来《きた》ったように、意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、そのいわゆる区別とは多く外より与えられた独断にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極致が真理であり兼ねてまた実行であるのである。かつていった知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分れておらぬ、真に知即行である。ただ意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝
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