というが、知覚であっても予《あらかじ》め目的を定めてこれに感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは尽《ことごと》く有意的であるといってもよい。これに反し衝動的意志の如き者は全く受動的である。右の如く考えて見ると、運動表象と知識表象とは全く類を異にせるものではなく、意志と知識との区別も単に相対的であるといわねばならぬようになる。意志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、その程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うている。知識も主観的に見れば、内面的潜勢力の発展とも見ることができる、かつていったように、意志も知識も潜在的或者の体系的発展と見做《みな》すことができるのである。勿論《もちろん》主観と客観とを分けて考えて見れば、知識においては我々は主観を客観に従えるが、意志においては客観を主観に従えるという区別もあるであろう。これを詳論するには主客の性質および関係を明にする必要もあるであろうが、余はこの点においても知と意との間に共通の点があるのであろうと思う。知識的作用においては、我々は予め一の仮定を抱きこれを事実に照らして見るのである、いかに経験的研究であっても必ず先ず仮定を有っていなければならぬ、而し
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