態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現われねばならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。たとえば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである。それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった内容も形式も有っておらぬ、ただその深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば真の純粋経験とは単に所動的ではなく、かえって構成的で一般的方面を有っている、即ち思惟を含んでいるといってよい。
 純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、かえってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟で
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