通の罪人もこれを能《よ》くし得ることを示した。例の放蕩《ほうとう》子息が跪《ひざまず》いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能《よ》く罪の本質を知ったのである。
[#改ページ]

   第五章 知 と 愛

[#ここから4字下げ、地は本文より2字上]
この一篇はこの書の続として書いたものではない。しかしこの書の思想と連絡を有すると思うからここに附加することとした。
[#ここで字下げ終わり]

 知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想《もうそう》臆断《おくだん》即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能《よ》くするのである。たとえば明月の
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