すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが「すでにわれ生けるにあらず基督《キリスト》我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡《すべ》てを十字架に釘付け了《おわ》りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。基督が「十字架を取りて我に従はざる者は我に協《かな》はざる者なり」といったように、一点なお自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいわれないのである。
 現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒《いたず》らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかの単《ひとえ》に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらは凡て利己心の変形にすぎないのである。しかのみならず、余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以
前へ 次へ
全260ページ中217ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング