知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而《しか》して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後|蘇《よみがえ》るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此《かく》の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教《キリストきょう》ではこれを再生といい仏教ではこれを見性《けんしょう》という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。
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 第四編 宗  教

   第一章 宗 教 的 要 求

 宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知
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