ような物質的でまた消極的なものでなく、また第二の論者のいうように個人の人格が国家の基礎でもない。我々の個人はかえって一社会の細胞として発達し来ったものである。国家の本体は我々の精神の根柢である共同的意識の発現である。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのである。国家は統一した一の人格であって、国家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の発現である(この説は古代ではプラトー、アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が国家の為に尽すのは偉大なる人格の発展完成の為である。また国家が人を罰するのは復讐《ふくしゅう》の為でもなく、また社会安寧の為でもない、人格に犯すべからざる威厳がある為である。
国家は今日の処では統一した共同的意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現はここに止まることはできない、なお一層大なる者を要求する。それは即ち人類を打して一団とした人類的社会の団結である。此《かく》の如き理想は已にパウロの基督《キリスト》教においてまたストイック学派において現われている。しかしこの理想は容易に実現はできぬ。今日はなお武装的平和の時代である。
遠き歴史
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