において存在する者で、一の人格と見ることができるか否かに至っては種々の異論がある。ヘッフディングなどは統一的意識の実在を否定し、「森は木の集合であってこれを分《わか》てば森なる者がない、社会も個人の集合で個人の外に社会という独立なる存在はない」といっている(Hoffding[#「o」はウムラウト(¨)付き], Ethik, S. 157)。しかし分析した上で統一が実在せぬから統一がないとはいわれぬ。個人の意識でもこれを分析すれば別に統一的自己という者は見出されない。しかし統一の上に一つの特色があって、種々の現象はこの統一に由って成立する者と見做《みな》さねばならぬから、一つの生きた実在と看做《みな》すのである。社会的意識も同一の理由に由って一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人的意識と同じように中心もある連絡もある立派に一の体系である。ただ個人的意識には肉体という一つの基礎がある。これは社会的意識と異なる点であるが、脳という者も決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人という細胞に由って成っていると違う所はない。
 かく社会的意識なる者があって我々の個人的意
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