万物一体である。印度《インド》の古賢はこれを「それは汝である」 Tat twam asi といい、パウロは「もはや余生けるにあらず基督《キリスト》余に在《あ》りて生けるなり」といい(加拉太《ガラテア》書第二章二〇)、孔子は「心の欲する所に従うて矩《のり》を踰《こ》えず」といわれたのである。
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第十二章 善行為の目的(善の内容)
人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。善行為というのも単に意識内面の事にあらず、この事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明《あきらか》にせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根柢には分析のできない個人性というものがある。意識活動は凡《すべ》て皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志は尽《ことごと》くその人
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