区別ができるかというに、そは頗《すこぶ》る困難である、つまり強度の差とかその外種々の関係の異なるより来るので、絶対的区別はないのである(夢、幻覚等において我々はしばしば心像を知覚と混同することがある)。原始的意識にかかる区別があったのではなく、ただ種々の関係より区別せられるようになったのであろう。また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑なる過程であるように見えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用である。思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である。或統一者の発展と見ることができる。
 かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから、余はこれより少しくこれらの点について論じて見ようと思う。普通には知覚的経験の如きは所動的で、その作用が凡て無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用が凡て意識的であると考えられている。しかしかように明《あきらか》なる区別はどこにあるであろうか。思惟であっても、そが自由に活動し発展する時には殆ど無意識的注意の下において行われるのである、意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合で
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