g Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判断の本にはいつも純粋経験の事実がなければならぬ。種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、凡《すべ》ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則の如きも一種の内面的直覚である)。たとえば種々の観察より推して地球が動いていなければならぬというのも、つまり一種の直覚に基づける論理法に由りて判断するのである。
 従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。しかし今凡ての独断を棄てて直接に考え、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う。知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮質の刺戟に基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない。しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に
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