識は元来一の活動である。その根柢にはいつでも唯一の力が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にも已にこの力が現われて居る。更に進んで思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現われてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深遠なる統一力に従うの意に外ならない。然らずして抽象的に考えた単に理性というものは、かつて合理説を評した処に述べたように、何らの内容なき形式的関係を与うるにすぎないのである。この意識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、かえって意識内容はこの力に由って成立するものである。勿論意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかしその綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。たとえば画面に現われたる一種の理想、音楽に現われたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。而して斯の如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち統一力の維持発展にあるのである。
ここにいわゆる人格の力とは単に動植物の生活力という如き
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