を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。
[#ここで字下げ終わり]
世のいわゆる道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とかいって、徒《いたず》らに自己の要求を抑圧し活動を束縛するのを以て善の本性と心得ている。勿論不完全なる我々はとかく活動の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かかる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援《はんえん》すべき者があってこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒らに要求を抑制するのはかえって善の本性に悖《もと》ったものである。善には命令的威厳の性質をも具えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というのが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務或は法則|其者《そのもの》に価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起るのである。この点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、かえってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充すまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情
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