るのである。意志の目的は畢竟《ひっきょう》快楽の外になく、我々が快楽を以て人生の目的となすということは更に説明を要しない自明の真理である。それで快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理に由りて説明せんとする倫理学説の起るのは自然の勢である。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。
利己的快楽説とは自己の快楽を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の為にするという場合においても、その実は自己の快楽を求めているのであると考え、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなすのである。この説の完全なる代表者は希臘《ギリシャ》におけるキレーネ学派とエピクロースとである。アリスチッポスは肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽でも凡て同一の快楽である、ただ大なる快楽が善であると考えた。而《しか》して氏は凡て積極的快楽を尚《とうと》び、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といわねばならぬ。エピクロースはやはり凡ての快楽を以て同一となし、快楽が唯一の善で、如何なる快
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