純粋経験説の立脚地より見たのではなく、かえって過去は再び還《かえ》らず、未来は未だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働く時、我々はこれを一つの者と見なければならぬように、たといその統一作用が時間上には切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。
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第二章 思 惟
思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。その最も単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである。たとえば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断において主客両表象の結合は、実にこれによりてできるのである。勿論いつでも全き表象が先ず現われて、これより分析が始まるというのではない。先ず主語表象
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