III, Kap. 1)。また判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となるのである、たとえば技芸を習う場合に、始は意識的であった事もこれに熟するに従って無意識となるのである。更に一歩進んで考えて見れば、純粋経験とその意味または判断とは意識の両面を現わす者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面において統一性を有すると共に、また一方には分化発展の方面がなければならぬ。しかもジェームスが「意識の流」において説明したように、意識はその現われたる処についているのではなく、含蓄的に他と関係をもっている。現在はいつでも大なる体系の一部と見ることが出来る。いわゆる分化発展なる者は更に大なる統一の作用である。
 かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶において過去と関係し意志において未来と関係する時、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。心理学者は意識は物でなく事件である、されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。しかし余はかかる考は
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