を伴うの要がある。ただ快楽説のいうように意志は快楽の感情を目的とする者で、快楽が即ち善であるとはいわれない。快楽と幸福とは似て非なる者である。幸福は満足に由りて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起るのである。孔子が「疎食《そし》を飯《くら》ひ、水を飲み、肱《ひじ》を曲げて之を枕とす、楽も亦其の中に在り」といわれたように、我々は場合に由りては苦痛の中にいてもなお幸福を保つことができるのである。真正の幸福はかえって厳粛なる理想の実現に由りて得らるべき者である。世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば利己主義または我儘《わがまま》主義と同一視している。しかし最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳なるものはないのである。
 さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想という者は何から起ってくるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本来の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのである、即ち自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いているので、意識現象は凡《すべ》てこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最も能《よ》くこの力を発表したものである。かく考えて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self−realization であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる entelechie が善である)。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂《いい》に外ならず」といった。
 ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。善は即ち美である。たとい行為その者は大なる人性の要求から見て何らの価値なき者であっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を惹《ひ》くように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。希臘人《ギリシャじん》は善と美とを同一視している。この考は最も能くプラトーにおいて現われている。
 また一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。かつて論じたように、一の者の発展完成というのが凡て実在成立の根本的形式であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。して見れば、今自己の発展完成であるという善とは自己の実在の法則に従うの謂である。即ち自己の真実在と一致するのが最上の善ということになる。そこで道徳の法則は実在の法則の中に含まるるようになり、善とは自己の実在の真性より説明ができることとなる。いわゆる価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分つ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一であるのである。乃《すなわ》ち善を求め善に遷《うつ》るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一にしたのも一面の真理を含んでいる。しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。これらの考は希臘においてプラトーまた印度《インド》においてウパニシャッドの根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本である、また中世哲学においても「すべての実在は善なり」 omne ens est bonum という句がある)。
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   第十章 人 格 的 善

 前には先ず善とは如何なる者でなければならぬかを論じ、善の一般の概念を与えたのであるが、これより我々人間の善とは如何なる者であるかを考究し、これが特徴を明《あきらか》にしようと思う。我々の意識は決して単純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明なる事実である。して見ると、我々の要求なる者も決して単純ではない、種々なる要求のあるのが当然である。然らばこれらの種々なる要求の中で、いずれの要求を充すの
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