きず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。しかのみならず、快楽を以て人生の唯一の目的となすのは未だ真に人性自然の事実に合ったものといわれない。我々は決して快楽に由りて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならばかえって人性に悖《もと》った人である。
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   第九章 善(活動説)

 已《すで》に善についての種々の見解を論じ且つその不充分なる点を指摘したので、自ら善の真正なる見解は如何なるものであるかが明《あきらか》になったと思う。我々の意志が目的とせなければならない善、即ち我々の行為の価値を定むべき規範はどこにこれを求めねばならぬか。かつて価値的判断の本を論じた所にいったように、この判断の本は是非これを意識の直接経験に求めねばならぬ。善とはただ意識の内面的要求より説明すべき者であって外より説明すべき者でない。単に事物はかくあるまたはかくして起ったということより、かくあらねばならぬということを説明することはできぬ。真理の標準もつまる所は意識の内面的必然にあって、アウグスチヌスやデカートの如き最も根本に立ち返って考えた人は皆ここより出立したように、善の根本的標準もまたここに求めねばならぬ。然るに他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に求めようとしている。かくしては到底善の何故に為さざるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一である理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比して一歩を進めた者ということはできるが、理は意志の価値を定むべきものではない。ヘフディングが「意識は意志の活動を以て始まりまたこれを以て終る」といったように、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。後者が前者を起すのではなく、かえって前者が後者を支配するのである。然らば快楽説は如何《いかん》、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といってもよい位であるが、前にいったように快楽はむしろ意識の先天的要求の満足より起る者で、いわゆる衝動、本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといわねばならぬ。
 それで善は何であるかの説明は意志|其者《そのもの》の性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根本的統一作用であって、直《ただち》にまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他の為の活動ではなく、己《おのれ》自らの為の活動である。意志の価値を定むる根本は意志其者の中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、嚮《さき》に行為の性質を論じた時にいったように、その根柢には先天的要求(意識の素因)なる者があって、意識の上には目的観念として現われ、これによりて意識の統一するにあるのである。この統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足の感情を生ずるのである。行為の価値を定むる者は一にこの意志の根本たる先天的要求にあるので、能《よ》くこの要求即ち吾人の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞讃せられ、これに反した時は悪として非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成であるということとなる。斯《かく》の如き根本的理想に基づく倫理学説を活動説 energetism という。
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 この説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースはこれに基づいて一つの倫理を組織したのである。氏に従えば人生の目的は幸福 eudaimonia である。しかしこれに達するには快楽を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。
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 世のいわゆる道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とかいって、徒《いたず》らに自己の要求を抑圧し活動を束縛するのを以て善の本性と心得ている。勿論不完全なる我々はとかく活動の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かかる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援《はんえん》すべき者があってこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒らに要求を抑制するのはかえって善の本性に悖《もと》ったものである。善には命令的威厳の性質をも具えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というのが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務或は法則|其者《そのもの》に価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起るのである。この点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、かえってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充すまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情
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