心理学より見れば同一の感覚および感情の連続にすぎない、我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。ただ我々をして物心其者の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。しかし因果律に由りて果して意識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。
[#ここで字下げ終わり]
さらば疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか。そはただ我々の直覚的経験の事実即ち意識現象についての知識あるのみである。現前の意識現象とこれを意識するということとは直に同一であって、その間に主観と客観とを分つこともできない。事実と認識の間に一毫の間隙がない。真に疑うに疑いようがないのである。勿論、意識現象であってもこれを判定するとかこれを想起するとかいう場合では誤に陥ることもある。しかしこの時はもはや直覚ではなく、推理である。後の意識と前の意識とは別の意識現象である、直覚というは後者を前者の判断として見るのではない、ただありのままの事実を知るのである。誤るとか誤らぬとかいうのは無意義である。斯《かく》の如き直覚的経験が基礎となって、その上に我々の凡ての知識が築き上げられねばならぬ。
[#ここから1字下げ]
哲学が伝来の仮定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかかる直接の知識に還ってくる。近世哲学の始においてベーコンが経験を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は考う故に余在り」cogito ergo sum の命題を本として、これと同じく明瞭なるものを真理としたのもこれに由るのである。しかしベーコンの経験といったのは純粋なる経験ではなく、我々はこれに由りて意識外の事実を直覚しうるという独断を伴うた経験であった。デカートが余は考う故に余在りというのは已《すで》に直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。また明瞭なる思惟が物の本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学においては疑う能わざる真理として直にこれを受取ることはできぬ。余がここに直接の知識というのは凡てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸《もろもろ》の哲学史家のいっているように、デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立
前へ
次へ
全130ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング