」は小書き]は吾人の心即アートマン Atman である。このブラハマン[#「ハ」は小書き]即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。基督《キリスト》教は始め全く実践的であったが、知識的満足を求むる人心の要求は抑え難く、遂に中世の基督教哲学なる者が発達した。シナの道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗《すこぶ》るこの傾向がある。これらの事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のある事を証明するのである。欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテース、プラトーを始とし教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に長足の進歩をなすと共に知識と情意との統一が困難になり、この両方面が相分れるような傾向ができた。しかしこれは人心本来の要求に合うた者ではない。
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今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡《すべ》ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働をなすように考えている。またこの考が凡ての人の行為の基礎ともなっている。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求に由りて仮定したまでで、いくらも疑えば疑いうる余地があるのである。その外科学というような者も、何か仮定的知識の上に築き上げられた者で、実在の最深なる説明を目的とした者ではない。またこれを目的としている哲学の中にも充分に批判的でなく、在来の仮定を基礎として深く疑わない者が多い。
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物心の独立的存在ということが直覚的事実であるかのように考えられているが、少しく反省して見ると直にそのしからざることが明になる。今目前にある机とは何であるか、その色その形は眼の感覚である、これに触れて抵抗を感ずるのは手の感覚である。物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所の者は凡て物|其者《そのもの》の客観的状態ではない。我らの意識を離れて物其者を直覚することは到底不可能である。自分の心其者について見ても右の通りである。我々の知る所は知情意の作用であって、心其者でない。我々が同一の自己があって始終働くかのように思うのも、
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