点と同一になる)。
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意識上における事実の直覚、即ち直接経験の事実を以て凡ての知識の出立点となすに反し、思惟を以て最も確実なる標準となす人がある。これらの人は物の真相と仮相とを分ち、我々が直覚的に経験する事実は仮相であって、ただ思惟の作用に由って真相を明にすることができるという。勿論この中でも常識または科学のいうのは全く直覚的経験を排するのではないが、或一種の経験的事実を以て物の真となし、他の経験的事実を以て偽となすのである。たとえば日月|星辰《せいしん》は小さく見ゆるがその実は非常に大なるものであるとか、天体は動くように見ゆるがその実は地球が動くのであるというようなことである。しかしかくの如き考は或約束の下に起る経験的事実を以て、他の約束の下に起る経験的事実を推すより起るのである。各《おのおの》その約束の下では動かすべからざる事実である。同一の直覚的事実であるのに、何故その一が真であって他が偽であるか。此《かく》の如き考の起るのは、つまり触覚が他の感覚に比して一般的であり且つ実地上最も大切なる感覚であるから、この感覚より来る者を物の真相となすに由るので、少しく考えて見れば直にその首尾貫徹せぬことが明になる。或一派の哲学者に至ってはこれと違い、経験的事実を以て全く仮相となし、物の本体はただ思惟に由りて知ることができると主張するのである。しかし仮に我々の経験のできない超経験的実在があるとした所で、かくの如き者が如何にして思惟に由って知ることができるか。我々の思惟の作用というのも、やはり意識において起る意識現象の一種であることは何人も拒むことができまい。もし我々の経験的事実が物の本体を知ることができぬとなすならば、同一の現象である思惟も、やはりこれができないはずである。或人は思惟の一般性、必然性を以て真実在を知る標準とすれど、これらの性質もつまり我々が自己の意識上において直覚する一種の感情であって、やはり意識上の事実である。
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我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、ただ思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。
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思惟と直覚とは全く別の作用であるかのように考
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