て客観的意味を有《も》っている、思惟の本領とする所は真理を現わすにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄《しんもう》ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる。これらの点を明にするにはいわゆる客観、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考えて見ると、純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う。前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有っている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。この考より見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反した時が誤ったのである。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。しかし余は知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事は後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲を強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。
これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている点も、深く考えて見ると一致の点を見出し得ることを述べ
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