あるように思われるのである。しかしかかる現象は知覚の場合にもないのではない。少しく複雑なる知覚においては如何に注意を向けるかは自由である、たとえば一幀の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる。その外、知覚では我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいうが、内外の区別というも要するに相対的にすぎぬ、ただ思惟の材料たる心像は比較的変動し易く自由であるからかく見えるのである。
 次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者全然その類を異にする者のように考えられている。しかし純粋に抽象的関係というような者は我々はこれを意識することはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を藉《か》りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。たとえば三角形の総《す》べての角の和は二直角であるということを証明するにも、或特殊なる三角形の心像に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、これに伴う一現象である。ゴール Gore は、心像とその意味との関係は刺戟とその反応との関係と同一であると説いている(Dewey, Studies in Logical Theory)。思惟は心像に対する意識の反応であって、而《しか》してまた心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別物ではない。いかなる心像であっても決して独立ではない、必ず全意識と何らかの関係において現われる、而してこの方面が思惟における関係の意識である、純粋なる思惟と思われる者も、ただこの方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との関係を右の如く考えた所で、知覚においてはかくの如き思惟的方面がないかというに、決してそうではない。凡ての意識現象のように知覚も一の体系的作用である、知覚においてはその反応はかえって顕著であって意志となり動作となって現われるのであるが、心像においては単に思惟として内面的関係に止まるのである。されば事実上の意識には知覚と心像との区別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事実の意識である、而して知覚と心像との別も前にいったように厳密なる純粋経験の立脚地よりしては、どこまでも区別することはできないのである。
 以上は心理学上より見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくし
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