たのであるが、今少しく思惟の起源および帰趨《きすう》について論じ、更に右二者の関係を明にしようと思う。我々の意識の原始的状態または発達せる意識でもその直接の状態は、いつでも純粋経験の状態であることは誰しも許す所であろう。反省的思惟の作用は次位的にこれより生じた者である。しからば何故に此《かく》の如き作用が生ずるのであるかというに、前にいったように意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、しかもその発展の行路において種々なる体系の矛盾衝突が起ってくる、反省的思惟はこの場合に現われるのである。しかし一面より見て斯《かく》の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直《ただち》に一層大なる体系的発展の端緒である。換言すれば大なる統一の未完の状態ともいうべき者である。たとえば行為においてもまた知識においても、我々の経験が複雑となり種々の聯想が現われ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。この矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味しているのであって、決意或は解決の時已に大なる統一の端緒が成立するのである。しかし我々は決して単に決意または解決という如き内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現われねばならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。たとえば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである。それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった内容も形式も有っておらぬ、ただその深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば真の純粋経験とは単に所動的ではなく、かえって構成的で一般的方面を有っている、即ち思惟を含んでいるといってよい。
 純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、かえってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟で
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