》の作用的関係より推理するのである、決して直覚的事実ではない。
[#ここで字下げ終わり]
また右の如く自然を純物質的に考えれば動物、植物、生物の区別もなく、凡《すべ》て同一なる機械力の作用というの外なく、自然現象は何らの特殊なる性質および意義を有せぬものとなる。人間も土塊も何の異なる所もない。然るに我々が実際に経験する真の自然は決して右にいったような抽象的概念でなく、従って単に同一なる機械力の作用でもない。動物は動物、植物は植物、金石は金石、それぞれ特色と意義とを具えた具体的事実である。我々のいわゆる山川草木虫魚禽獣というものは、皆斯の如くそれぞれの個性を具えた者で、これを説明するには種々の立脚地より、種々に説明することもできるが、この直接に与えられたる直覚的事実の自然は到底動かすことのできない者である。
[#ここから1字下げ]
我々が普通に純機械的自然を真に客観的実在となし、直接経験における具体的自然を主観的現象となすのは、凡て意識現象は自己の主観的現象であるという仮定より推理した考である。しかし幾度もいったように、我々は全然意識現象より離れた実在を考えることはできぬ。もし意識現象に関係あるが故に主観的であるというならば、純機械的自然も主観的である、空間、時間、運動という如きも我々の意識現象を離れては考えることはできない。ただ比較的に客観的であるので絶対的に客観的であるのではない。
[#ここで字下げ終わり]
真に具体的実在としての自然は、全く統一作用なくして成立するものではない。自然もやはり一種の自己を具えているのである。一本の植物、一匹の動物もその発現する種々の形態変化および運動は、単に無意義なる物質の結合および機械的運動ではなく、一々その全体と離すべからざる関係をもっているので、つまり一の統一的自己の発現と看做《みな》すべきものである。たとえば動物の手足鼻口等凡て一々動物生存の目的と密接なる関係があって、これを離れてその意義を解することはできぬ。少くとも動植物の現象を説明するには、かくの如き自然の統一力を仮定せねばならぬ。生物学者は凡て生活本能を以て生物の現象を説明するのである。啻《ただ》に生物にのみ此の如き統一作用があるのではなく、無機物の結晶においても已《すで》に多少この作用が現われている。即ち凡ての鉱物は皆特有の結晶形を具えているのである。自然の自
前へ
次へ
全130ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング