己即ち統一作用は此の如く無機物の結晶より動植物の有機体に至ってますます明《あきらか》となるのである(真の自己は精神に至って始めて現われる)。
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 現今科学の厳密なる機械的説明の立脚地より見れば、有機体の合目的発達も畢竟《ひっきょう》物理および化学の法則より説明されねばならぬ。即ち単に偶然の結果にすぎないこととなる。しかし斯の如き考はあまり事実を無視することになるから、科学者は潜勢力という仮定をもってこれを説明しようとする。即ち生物の卵または種にはそれぞれの生物を発生する潜勢力をもっているという、この潜勢力が即ち今のいわゆる自然の統一力に相当するのである。
 自然の説明の上において、機械力の外に斯の如き統一力の作用を許すとするも、この二つの説明が衝突する必要はない。かえって両者相待って完全なる自然の説明ができるのである。たとえばここに一の銅像があるとせよ、その材料たる銅としては物理化学の法則に従うでもあろうが、こは単に銅の一塊と見るべき者ではなく、我々の理想を現わしたる美術品である。即ち我々の理想の統一力に由りて現われたるものである。しかしこの理想の統一作用と材料|其者《そのもの》を支配する物理化学の法則とは自ら別範囲に属し、決して相犯すはずのものではない。
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 右にいったような統一的自己があって、而《しか》して後自然に目的あり、意義あり、甫《はじ》めて生きた自然となるのである。斯の如き自然の生命である統一力は単に我々の思惟に由りて作為せる抽象的概念ではなく、かえって我々の直覚の上に現じ来《きた》る事実である。我々は愛する花を見、また親しき動物を見て、直《ただち》に全体において統一的或者を捕捉するのである。これがその物の自己、その物の本体である。美術家は斯の如き直覚の最もすぐれた人である。彼らは一見、物の真相を看破して統一的或物を捕捉するのである。彼らの現わす所の者は表面の事実ではなく、深く物の根柢に潜める不変の本体である。
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 ゲーテは生物の研究に潜心し、今日の進化論の先駆者であった。氏の説に由ると自然現象の背後には本源的現象 Urphanomen[#「a」はウムラウト(¨)付き] なる者がある。詩人はこれを直覚するのである。種々の動物植物はこの本源的現象たる本源的動物、本源的植物の変化せる者である
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