であるのである。たとえば我々が真に草木として考うる物は、生々たる色と形とを具えた草木であって、我々の直覚的事実である。ただ我々がこの具体的実在より姑《しばら》く主観的活動の方面を除去して考えた時は、純客観的自然であるかのように考えられるのである。而して科学者のいわゆる最も厳密なる意味における自然とは、この考え方を極端にまで推し進めた者であって、最抽象的なる者即ち最も実在の真景を遠ざかった者である。
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自然とは、具体的実在より主観的方面、即ち統一作用を除き去ったものである。それ故に自然には自己がない。自然はただ必然の法則に従って外より動かされるのである、自己より自動的に働くことができないのである。それで自然現象の連結統一は精神現象においてのように内面的統一ではなく、単に時間空間上における偶然的連結である。いわゆる帰納法に由って得たる自然法なる者は、或両種の現象が不変的連続において起るから、一は他の原因であると仮定したまでであって、如何に自然科学が進歩しても、我々はこれ以上の説明を得ることはできぬ。ただこの説明が精細に且つ一般的となるまでである。
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現今科学の趨勢《すうせい》はできるだけ客観的ならんことをつとめている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。此《かく》の如き説明の基礎となる純機械的説明とはいかなる者であるか。純物質とは全く我々の経験のできない実在である、苟《いやしく》もこれについて何らかの経験のできうる者ならば、意識現象として我々の意識の上に現われ来る者でなければならぬ。然るに意識の事実として現われきたる者は尽《ことごと》く主観的であって、純客観的なる物質とはいわれない、純物質というのは何らの捕捉すべき積極的性質もない、単に空間時間運動という如き純数量的性質のみを有する者で、数学上の概念の如く全く抽象的概念にすぎないのである。
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物質は空間を充す者として恰もこれを直覚しうるかのように考えているが、しかし我々が具体的に考えうる物の延長ということは、触覚および視覚の意識現象にすぎない。我々の感覚に大きく見えるとも必ずしも物質が多いとはいわれぬ。物理学上物質の多少はつまりその力の大小に由りて定まるので、即ち彼此《ひし
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