れる。しかしこの時は已に統一作用ではなくして、統一の対象となっているのである。前にいったように、統一作用はいつでも主観であるから、従っていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無意識が活動であるといっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに反し或意識を客観的対象として意識した時には、その意識は已に活動を失ったものである。たとえば或芸術の修錬についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となるのである。
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 心理学より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬという非難がある。しかし我々の精神現象は単に観念の連続でない、必ずこれを連結統一する無意識の活動があって、始めて精神現象が成立するのである。
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 最後に現象と本体との関係について見ても、やはり実在の両方面の関係と見て説明することができる。我々が物の本体といっているのは実在の統一力をいうのであって、現象とはその分化発展せる対立の状態をいうのである。たとえばここに机の本体が存在するというのは、我々の意識がいつでも或一定の結合に由って現ずるということで、ここに不変の本体というのはこの統一力をさすのである。
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 かくいえば真正の主観が実在の本体であると言わねばならぬ事になる、然るに我々は通常かえって物体は客観にあると考えている。しかしこれは真正の主観を考えないで抽象的主観を考えるに由るのである。此の如き主観は無力なる概念であって、これに対しては物の本体はかえって客観に属するといった方が至当である。しかし真正にいえば主観を離れた客観とはまた抽象的概念であって、無力である。真に活動せる物の本体というのは、実在成立の根本的作用である統一力であって、即ち真正の主観でなければならぬ。
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   第八章 自  然

 実在はただ一つあるのみであって、その見方の異なるに由りて種々の形を呈するのである。自然といえば全然我々の主観より独立した客観的実在であると考えられている、しかし厳密に言えば、斯《かく》の如き自然は抽象的概念であって決して真の実在ではない。自然の本体はやはり未だ主客の分れざる直接経験の事実
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