`を有するということができる。これに反し真の国家の名に価するものは、いわゆる政治以上のものでなければならない。マキアヴェルリが国家の本質とした「力」virtu 【#「u」はグレーブアクセント付き】というものすら、創造性を意味していたものと考えることができるであろう。多と一との矛盾的自己同一的形成作用として、国家はそれ自身が自己矛盾的存在である。故に国家存在理由には、いつも矛盾が含まれている。しかしそこに国家の存在理由があるのでなければならない。歴史的世界に実在するものは、すべて自己矛盾的でなければならない。而して文化はかかる実在の自己形成から成立するのである。現在の十字架において薔薇《ばら》を認めることでなければならない、然らざれば真の文化ではない。芸術という如きものも、矛盾的自己同一的な社会の自己形成作用として生れるのである。かかる意味において、私は芸術が社会の儀式から生れるという考に興味を有するのである(Jane Harrison, Ancient Art and Ritual[『古代芸術と祭式』])。而してそれは何処まで進んでも、かかる立場が失われないであろう。芸術も具体的論理的という所以《ゆえん》である。しかし矛盾的自己同一的形成が深くなればなるほど、行為的直観の現実を中心として種々なる文化が相異なる方向に分化発展するのである。
絶対矛盾的自己同一の世界は、作られたものから作るものへとの自己形成の過程において、イデヤ的である、直観的なるものを含むといった。しかし私はそこに世界の自己同一を置くのではない。もし然《しか》いうならば、それは絶対矛盾的自己同一の世界ではない。絶対矛盾的自己同一の世界においては、自己同一は何処までもこの世界を越えたものでなければならない。それは絶対に超越的でなければならない、人間より神に行く途《みち》はない。個物的多と全体的一とは、この世界において何処までも一とならないものでなければならない。この世界に内在的に、イデヤ的なるものに、自己同一を置くかぎり、世界は真に自己自身から動く現実の世界ではない。この故に絶対矛盾的自己同一の世界は、イデヤ的なるものをも否定する世界でなければならない、文化をも否定する世界でなければならない。イデヤ的世界は仮現の世界である。イデヤ的なるものは、生れるもの、死に行くもの、変じ行くもの、過程的なものでなければならない。世界が絶対矛盾的自己同一的なる故に、その自己形成の過程が単に機械的でもなく、合目的的でもなく、イデヤ的形成でなければならないのである。絶対弁証法的なるが故にイデヤ的直観的契機が含まれるのである。故に文化と宗教とは何処までも相反する所に、相結合するということができる。私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。自己が自己において自己の影を映すということは、私がしばしば表現作用の場合においていう如く、それは絶対の断絶の連続ということでなければならない。それは何処までも超越的なるものが自己矛盾的に内在的、即ち絶対矛盾的自己同一ということでなければならない。宗教は文化を目的とするものではない、かえってその逆である。しかし真の文化は宗教から生れるものでなければならない。
絶対矛盾的自己同一の世界は自己自身の中に自己同一を有《も》たない。矛盾的自己同一として、いつもこの世界に超越的である。この故に限定するものなき限定として、その自己形成がイデヤ的である。斯《か》くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。それは文化発展によって減ぜられ行く矛盾ではなくして、かえって益※【#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、78−2】|明《あきらか》となる矛盾であるのである。超越的なるものにおいて自己同一を有つ矛盾的自己同一的世界においては、作られたものから作るものへとの行為的直観的なポイエシス的過程は何処までも無限進行でなければならない。我々はその方向において絶対者に、神に結び附くのではない。我々は我々の自己成立の根柢において神に結合するのである(我々は被創造物であるのである)。
過去と未来とが自己矛盾的に、現在において同時存在的なる矛盾的自己同一的現在の形成要素として、我々は生命の始においてかかる約束の下に立たねばならない。我々はいつも絶対に接しているのである。唯これを意識せないのである。我々は自己矛盾の底に深く省みることによって、自己自身を翻して絶対に結合するのである、即ち神に帰依するのである。これを回心《えしん》という。そこには自己自身を否定することによって、真の自己を見出すのである。ルターは基督《キリスト》者の自由を論じて、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、すべてのものに奉仕する従僕であるという。故に我々はこの世界の中に自己同一を置く我々の行為によって宗教に入るのでなく、かかる行為そのもの、自己そのものの自己矛盾を反省することによって宗教に入るのである。而して我々が斯く自己自身の根柢において自己矛盾に撞着《どうちゃく》するというも、自己自身によるのでなく絶対の呼声でなければならない。自己自身によって自己否定はできない(ここに宗教家は恩寵《おんちょう》というものを考える)。この故に宗教は出世間的と考えられる。しかし右にもいった如く、宗教は絶対矛盾的自己同一的立場として、それによって真の文化が成立するのでなければならない。我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。而して超越的一者に対することによって自己が自己であるということは、同時に私がアガペ的に隣人に対することである。他を人格と見ることによって自己が人格となるという道徳的原理は、これに基《もとづ》くものでなければならない。かかる道徳的制約の下に、矛盾的自己同一的に、自己自身を形成する世界として、作られたものから作るものへと、世界はイデヤ的形成的でなければならない。
宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。しかしそれは自力|作善《さぜん》の道徳的行為を媒介として宗教に入るということではない。親鸞《しんらん》が『歎異抄《たんにしょう》』においての善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという語、深く味《あじわ》うべきである。また今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容《あいい》れないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎない。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。
東洋的無の宗教は即心是仏と説く。それは唯心論でもなく神秘主義でもない。論理的には、多と一との矛盾的自己同一ということでなければならない。一切即一というのは、一切が無差別的に一というのではない。それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。そこに絶対現在として歴史的世界成立の原理があるのである。我々は絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、いつもこれに対するということもできない絶対に接しているのである。即今目前孤明歴々地聴者、此人処々不滞、通貫十方[即今《そっこん》目前孤明|歴歴《れきれき》地《じ》に聴く者、此の人は処処に滞《とどこお》らず、十方に通貫す]といわれる。我々は自己矛盾の底に絶対に死して、一切即一の原理に徹するのが即心是仏の宗教である。※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1−14−45、80−8】祇今聴法者、不是※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1−14−45、80−8】四大、能用※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1−14−45、80−9】四大、若能如是見得、便乃去住自由[※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1−14−13、80−9】《なんじ》が祇《た》だ今聴法するは、是れ※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1−14−13、80−9】が四大にあらずして、能く※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1−14−13、80−10】が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃《すなわ》ち去住自由ならん]という。しかもそれは虚幻の伴子たる意識的自己ということではなく、そこには絶対否定的転換がなければならない。故にそれは唯心論とか神秘主義とかいうものとは逆に、絶対の客観主義でなければならない。真の学問も道徳も、これによって成立するのである。心といっても主観的意識をいうのでなく、内亦不可得であり、無といっても、有に対する相対的無をいうのではない。
多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界である。故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者に対する。而して斯《か》く超越的一者に対するということは、内在的にはアガペ的に個物が個物に対することである。我々は作られたものから作るものへとして、歴史的にこの世界から生れるものでありながら、いつも我々は直接にこの世界を越えたものに対するものであり、即ちこの世界を越えたものである。そこに個物と世界とが対立する。前に行為的直観の立場において与えられたものというのは、我々の個人的自己に迫るもの、我々の魂を奪うものといったのは、これによるのである。それは我々の身体的生命を否定するのみならず、我々の魂を否定するものでなければならない。超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界の個物として、我々はこれに対して何処までも対立的である。与えられたものとして自己自身に迫り来るものに自己を奪われるかぎり、超越的一者において自己を有つ真の個物ではない。我々は何処までも物に奪われてはならない。そこに無上命法の根拠があるのである。しかしそれはまた何処までも絶対矛盾的自己同一的世界の個物としてでなければならない。然らざれば、単なる道徳的自尊として一種のヒュブリスたるに過ぎない。我々が右の如き個物として、人格的であればあるほど、作られたものから作るものへとして、イデヤ的形成的でなければならない。それは我々が創造的世界の創造的要素として、超越的一者の機関となるということでなければならない。そこに道徳的ということが、即ち宗教的ということであるのである。
世界は絶対矛盾的自己同一として、自己自身を越えたものにおいて自己同一を有《も》ち、我々は超越的一者に対することによって個物なるが故に、我々は個物的なればなるほど、現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を越えて、反省的であり、思惟的であるのである。世界が自己自身を越えたものにおいて自己同一を有つという時世界は表現的である、我々はかかる世界の個物として表現作用的である。而して世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。反省とは過去と未来とが現在において結合することでなければならない。かかる方向において過去と未来とが何処までも現在において否定せられ、無限に動き行く世界を一つの現在として把握するのが思惟の立場である。思惟の立場においては、表現的に世界を一つの現在として把握するのである。矛盾
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