I自己同一的世界がそこには自己自身の中に自己同一を有つものとして把握せられるのである。自己矛盾的世界を非矛盾的に把握するのである。この故に思惟の立場は何処までも自己矛盾的である。而してそこに思惟と実践とが何処までも対立する、純なる知識の立場というものが成立するのである。世界が矛盾的自己同一として、イデヤ的形成的なればなるほど、我々は個物的として思惟的となるということができる。無限なる過去から無限なる未来へとして、何処までも自己自身の中に自己同一を有たない世界が、自己自身の中に自己同一を有つものとして推論式的一般者と考えられるのである。そこに科学的知識というものが成立するのである。
 右の如く絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、いつもその矛盾的自己同一的現在において論理的に推論式的一般者と考えられる。斯く世界が何処までも自己自身の中に自己否定の契機を有つということが、世界が矛盾的自己同一的たる所以《ゆえん》であるのである。然らざれば、それは矛盾的自己同一的世界ではないのである。しかし絶対矛盾的自己同一的世界を何処までもかかる立場から把握して行くこと、即ち内在的に自己同一的に見るということは、それを抽象化することでなければならない。具体的論理はその否定的契機として抽象的論理を含まねばならないが、抽象的論理の立場から具体的論理的に考えることはできない。絶対矛盾的自己同一的世界は何処までも自己自身の中に、自己同一を有つことはできない。それは作られたものから作るものへという歴史のイデヤ的形成の契機として、含まれるものでなければならない。我々の自己が歴史的制作的自己として実在を把握し行く所に、具体的論理というものがあるのである。そこに多と一との矛盾的自己同一として我々が含まれている世界が、自己自身を明にするといい得るであろう。我々の意識は自己矛盾的に世界の意識となるのである。故にそこに我々が実践によって実在を映すとか、物が物自身を証明するとかいうこともできる。知識は抽象的分析から始まるといっても、如何なる立場から如何にということは、作られたものから作るものへとして、自己が如何なる立場にあるかの自覚からでなければならない。知識は歴史的過程でなければならない。私は右の如き歴史的生命の自覚という如きものを弁証法的論理というのである。故に科学も弁証法的である。但《ただ》それは作られたものからというに即するが故に、環境的といわねばならない。その立場からのみ歴史的生命の世界を見ることは、抽象的たるを免れない。
 我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。アリストテレスのいう如く、身体的発展は自然のポイエシスである。しかし我々の社会的生命において、それが真に技術的となる。我々の身体は歴史的身体的と考えられる。かかる立場から、我々の歴史的生命は何処までも技術的といい得るであろう。しかしまた逆に歴史的生命が技術的ということは、矛盾的自己同一的に、何処までもイデヤ的形成的ということでなければならない。故に種的形成からイデヤ的形成に発展する。かかる意味においてのみ、特殊が即一般といい得るのである。



底本:「西田幾多郎哲学論集III」岩波文庫、岩波書店
   1989(昭和64)年 12月18日 第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集」岩波書店
入力:nns
校正:ちはる
2001年6月5日公開
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