アとは、世界が非創造的となることである、世界が自己自身を否定することである。直観自身が自己矛盾である。世界が生きるかぎり、即ち創造的であり生産的であるかぎり、世界は自己矛盾に陥らざるを得ない。我々の行為的自己は、かかる世界の自己矛盾の底より生れるのである。世界が絶対過去として直観的に個人的自己に迫り来るというのは、機械的にでもなく合目的的にでもなく、我々の魂の譲与を迫り来ることでなければならない。単なる了解の対象としてでなく、信念の対象として、行為を唆すものとして、迫り来ることでなければならない。それは何処までも論理性を有ったものでなければならない。然らざれば、我々の個人的自己を動かすものではない、我々の行為的自己に対して与えられたものとはいえない。絶対矛盾的自己同一的現在において、作られたものとして我々を動かすものは、抽象論理的に我々に迫るものでなければならない(斯《か》くあったから斯くすべしとして)。抽象論理の立場からは、世界を決定したものとして考えるのである。我々の行為的自己が過去から自己に臨む所に、抽象論理的である。これを反省という。しかし我々の行為的自己は、矛盾的自己同一的世界の形成要素として、行為的直観的に、ポイエシス的に、歴史的世界の生産様式を把握し行く所に、具体的論理があるのである。過去というものがなければ未来はない。我々の行為には、何処までも過去が基とならなければならない。決定せられたものからという立場からは、我々の行為は抽象論理的でなければならない。矛盾的自己同一的世界が何処までも行為的直観的に我々に臨むということは、抽象論理的に我々を動かすことが含まれていなければならない。しかしそれは何処までも絶対矛盾的自己同一的現在においての過去として、形成作用的に然るのである。具体的論理は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、抽象論理を媒介とするが、抽象論理は具体的論理の媒介として、論理の意義を有するのである。然らざれば単なる形式たるに過ぎない。
私の行為的直観的に実在を把握するというのは、抽象論理を媒介とせないというのではなく、我々が矛盾的自己同一的世界の形成要素として個物的であり、創造的であればあるほど、絶対矛盾的自己同一的現在において行為的直観的に与えられるものは、論理的に我々を動かすものでなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するのが、具体的論理である。かかる意味において、芸術も具体的論理的である。私は人間の歴史的形成の立場から芸術を見るのであって、後者から前者を見るのではない。
四
直観的に与えられたものが、論理的に我々を動かすというのは、普通の考に反することであろう。私のいう所があるいは無理押しと考えられるかも知れない。しかし直観とか所与とかについて、従来の考え方は知的自己の立場からであって、具体的な歴史的・社会的自己の立場からではない、即ち行為的・制作的自己の立場からではない。判断論理の立場からは、与えられたものといえば非合理的と考えられ、直観といえば論理を拒否すると考えられるでもあろう。しかし具体的人間としては、我々は制作的・行為的として歴史的・社会的世界に生れ来るのであり、何処まで行ってもかかる立場を脱するものではない。与えられるものは歴史的・社会的に与えられるのであり、直観的に見られるものは行為的・制作的に見られるのであり、表現的に我々を動かすものである。矛盾的自己同一的現在の世界において与えられたものとして、我々の個人的自己に迫るものでなければならない。社会というのは、矛盾的自己同一的世界の自己形成として成立するのである。如何に原始的であっても、単に本能的ではない、単に全体的ではない、多と一との矛盾的自己同一的でなければならない。我々は個人的自己として絶対矛盾的自己同一的なるもの超越的なるものに対しているのである。マリノースキイのいう如く、原始社会にも既に個人というものが含まれていなければならない。動物的群居と異なるものがあるのである。原始社会はトーテムとかタブーとかにより極度に束縛せられる。しかしなお個人の自由というものがあるのである、故に罪というものがあるのである。
具体的人間としての我々に与えられるものは、心理学者の直覚という如きものではなく、社会的に与えられるものでなければならない、我々を包むものとして与えられるのである。矛盾的自己同一的世界の自己形成として強迫的に与えられるのである、私のいわゆる弁証法的一般者の自己限定として与えられるのである。社会的因襲的に過去からとして要請せられるのである。論理的には特殊的といっても、我々が歴史的・社会的であるかぎり、種的であるかぎり、本質的にそれから動かされざるを得ないのである。それはレヴィ・ブリュールの如く論理以前ということができるであろう。しかしプラトンの論理といえども、その根柢においてイデヤの分有にほかならない。単なる抽象的論理はかえって真の論理ではない。具体的論理は両面の矛盾的自己同一でなければならない。いうまでもなく、論理が真の論理となるには、ミトス的なものは否定せられて行かなければならない。作られたものから作るものへと、社会は弁証法的に進展し行くのである。しかし何処まで行っても、その根柢において、歴史的・社会的形成として、ポイエシス的に実在を把握し行くという行為的直観の過程たるを脱せない。具体的論理たるかぎり、爾《しか》いうことができる。しかし斯《か》くいうのは、論理の根柢に神秘的直観的なものを考えるということではない。何処までもポイエシス的に、実践的に、真実在に肉迫し行くことである。絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くことである。そこには何処までもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない。単に特殊的なるもの単に歴史的なるものを越え行かねばならない。そこには直観的に与えられるものが否定せられると考えられる。しかしそれは抽象的合理論者の考える如く、歴史的過去が否定せられるとか、特殊が単に一般の特殊となるとかいうことではない。原始社会というものが、既に矛盾的自己同一として成立するのである。而《しか》して我々の社会は何処までもかかる立場において発展し行くのである。否、矛盾的自己同一的なるが故に、作られたものから作るものへと発展し行くのである。
歴史的に与えられたものは、絶対矛盾的自己同一的現在において世界史的に与えられたものとして、我々が個人的自己であればあるほど、それを否定することができないまでに自己の生命の根柢に迫るのである。直観的に我々に迫るものは、世界史的に迫るものとなるのである。社会の特殊性は単なる特殊性ではなく、固《もと》歴史的世界の生産様式であったのである。我々は個人的自己として、すべて直観的なるものを棄《す》てて、合理的となると考える。しかしそれはかえって自己同一的世界の形成要素として、真に行為的直観的となるということである。原始社会においての如く、我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである。否、我々は個人的なればなるほど、爾いうことができる。矛盾的自己同一的世界の形成要素として絶対矛盾的自己同一に対することによって我々は個人的自己となるのである。我々はこれに至って真に個人的自己となるということができる。而して我々は矛盾的自己同一的世界の自己形成によって、即ち具体的論理的にそこに至るのである。具体的論理は何処までも抽象論理を媒介とする。しかし抽象論理的媒介によって具体的論理に行くのではない。
ヘーゲルは人格がイデヤ的存在であるために、財産を有《も》たねばならぬという。具体的人格は歴史的身体的でなければならない。社会は作られたものから作るものへという歴史的生産作用として成立し、我々の自己はかかる矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会の形成要素としてあるのである。人格というものも、かかる立場から考えられねばならない。人間の社会は動物のそれと異なって最初より個人というものがあり、多と一との矛盾的自己同一において、全体的一に対する個物的多として人格的自己というものが成立するのである。矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝《なんじ》に対し、人格は人格に対するということでもある。社会は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、何処までも作られたものから作るものへと動いて行く。かかる過程は機械的でもなく合目的的でもない。多と一との矛盾的自己同一的過程として行為的直観的でなければならない。多が一の多、一が多の一、動即静、静即動として、そこに永遠なるものの自己形成即ちイデヤ的形成の契機が含まれていなければならない。文化というのはかかる契機において成立するのである。この故にそれは何処までも種的形成でありながら、絶対矛盾的自己同一的現在の自己形成として世界史的となる。矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会は、是《ここ》においてイデヤ的形成的として国家となる、即ち理性的となるのである。かかる社会の形成要素として我々は具体的人格となるのである。かかる意味において国家が倫理的実体であり、我々の道徳的行為は国家を媒介とするということができるのである。文化的ならざる国家というものはない。非文化的な社会は国家の名に価せないものである。但、文化はイデヤ的として世界史的なるを以て或社会の種的形成でありながら、いつもそれだけのものではない。
歴史的世界は、生物の始から人間に至るまで、多と一との矛盾的自己同一である。而して作られたものから作るものへと動いて行くのである。動物的生命においては、なお個物的多が全体的一に対立せない、即ち個物が独立せない。作られたものから作るものへとの歴史的進展の過程が、全体的一の過程と考えられる、即ち合目的的と考えられる。個物が独立せないということは、逆に一がなお真の一でないということである、個物的多の世界に対して超越的でないということである、なお多の一であるということである。これに反して人間の世界においては、如何に原始的であっても既に多と一との矛盾的自己同一的である。しかしそれでも原始的社会にあっては、個物はなお真に独立的ではない、全体的一は抑圧的である。全体的一は単に超越的である。多は一の多である。然るに個物は何処までも独立的たることによって個物である。絶対矛盾的自己同一の世界においては、個物が個物自身を形成することが世界が世界自身を形成することであり、その逆に世界が世界自身を形成することが個物が個物自身を形成することである。多と一とが相互否定的に一となる、作られたものから作るものへである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、かかる契機が含まれていなければならない。それが文化的過程である。かかる立場において、個物的多を生かすことが全体的一が生きることであり、全体的一が生きることが個物的多が生きることである。社会が実体的自由として倫理的実体となり、歴史的世界の形成作用として我々の行為は道徳的意義を有つ。世界が絶対矛盾的自己同一として矛盾的自己同一的に、イデヤ的に自己自身を形成し行く所に、我々が行為的直観的に創造的なる所に、真の道徳があるのである。
かかる意味において、文化的過程は倫理的でなければならない。文化的発展が実体的自由としての国家を媒介とするということもできるのである。倫理的実体たる社会の個人として創造的なるかぎり、我々の行為が道徳的であり、絶対矛盾的自己同一的世界の形成作用として、イデヤ的形成的なるかぎり、社会が倫理的実体であるのである。かかる世界のイデヤ的形成の要求が何処までも独立的に自己自身を限定する個人的自己において、当為として意識せられるのである。芸術や学問も、かかる立場においてイデヤ的形成作用たるかぎり、倫理的意
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