ホならない。我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。而して超越的一者に対することによって自己が自己であるということは、同時に私がアガペ的に隣人に対することである。他を人格と見ることによって自己が人格となるという道徳的原理は、これに基《もとづ》くものでなければならない。かかる道徳的制約の下に、矛盾的自己同一的に、自己自身を形成する世界として、作られたものから作るものへと、世界はイデヤ的形成的でなければならない。
 宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。しかしそれは自力|作善《さぜん》の道徳的行為を媒介として宗教に入るということではない。親鸞《しんらん》が『歎異抄《たんにしょう》』においての善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという語、深く味《あじわ》うべきである。また今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容《あいい》れないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎ
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