トの対立として主体と環境との対立ということができる。かかる絶対現在においての主体と環境との対立、相互形成は機械的でも、合目的的でもあることはできない。環境は何処までも表現的であり、主体へ、作るものへ、何処までも直観的に迫るのである。直観とは物が我々の自己を奪い去らんとすることである。物と自己とが無関心に対立することではない。物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能働的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定するとも考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能働的となることである。物をそのままに受取ることではない、物を能働的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益※《ますます》【#「※」は二の字点、第
前へ
次へ
全104ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング