燒ウ限なる方向があり、無限に幻想的でなければならない。生命が矛盾的自己同一的なればなるほど爾《しか》いうことができる。我々が個性的に深ければ深いほど、幻想的ということができる。しかし矛盾的自己同一的に形成的なる所、行為的直観的なる所に、我々の個人的生命があるのである、真の自己があるのである。我々はそこに絶対矛盾的自己同一として、我々に生死を問うものに対しているのである。かかる行為的直観を離れた時、我々の働きは単に機械的か合目的的たるかに過ぎない。当為といっても行為的実現を離れては唯形式的たるに過ぎない。
 我々の種的生命というものも、無限なる弁証法的発展の結果として出来たものであるが、我々が単に因襲的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である。我々は時々刻々に創造的でなければならない。私の行為的直観というのは、全体が受働的に一時に現前するなどいう如きことではない。それでは自己というものがなくなることである、自己が単なる一般となることである。これに反し我々が何処までも個物的として、絶対矛盾的自己同一的に、我々の自己に臨む世界に対することである、創造的となることである
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