る。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此《もとかく》の如きものでなければならない。
自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、形というものなくして働くということはない。動物的生命においては見るといっても、朦朧《もうろう》たるに過ぎない、夢の如くに物の影像を見るまでであろう。動作が本能的と考えられる所以である。本質的には表現作用的といっても、真に外に物を作るということはできない。動物はなお対象界を有たない、真に行為的直観的に働くということはない。動物にはいまだポイエシスということはない。作られたものが作るものから離れない、作られたものが作るものを作るということがない、故に作られたものから作るものへではない。それは生物的身体的形成たるに過ぎない。然るにモナド的に自己が世界を映すことが逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという人間に至っては、行為的直観的に客観界において物を見ることから働く、いわば自己を外に見るこ
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