ウ着《どうちゃく》するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、時が否定せられると考えられる世界の意識面的形成として、知識は形式論理的でなければならない。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界から、その行為的直観的なる核を除去すれば形式論理的となるのである。しかし形式論理が行為的直観的な歴史的形成作用の外にあって、これと相媒介をなすのではなく、かえってこれに含まれているのでなければならない。知識は論理と直覚とが相対立し相媒介することによって成立するのではなく、具体的一般者の自己限定として成立するのでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、それが意識面的形成的に、即ち論理的に具体的一般者ということができる。モナドが世界を映すことは、世界のペルスペクティーフの一観点となることである。多と一との矛盾的自己同一的一般者、いわゆる弁証法的一般者の自己限定として、作られたものから作るものへと、ポイエシス的に、行為的直観的に実在を把握し行く所に、客観的知識が成立するのである(真の具体的一般者とは個物を含むものでなければならない、場所的でなければならない)。行為的直観の過程というのは、かかる具体的一般者の自己限定として具体的論理の過程でなければならない。帰納法的知識即ち科学的知識というのは、かかる過程によって成立するのである。
 上にいった如く、すべて我々の行為は行為的直観的に起るのである、個物が世界を映すから起るのである(故に表現作用的である)。我々の知識作用というも、何処までも歴史的行為として見られねばならない。如何にそれが抽象論理的と考えられても、客観的認識であるかぎり、ポイエシス的に、行為的直観的に物を把握するという立場を離れない。無論それは矛盾的自己同一的現在の自己限定として何処までも論理的に自己自身を媒介すべきはいうまでもない。我々が何処までも個物的であり、知識が客観的であればあるほど、爾《しか》いうことができる。従来の認識論においては、認識作用を歴史的世界においての歴史的形成作用として、即ちその全過程において考えていない。これを全過程として見ないで、一々の意識作用として、いわば歴史の横断面においてのみ見ているのである。これを意識面において中断して見れば、論理と直覚とが相対立し相媒介するとのみ考えられる。しかし全過程として
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