シ観的自己が何処までも個物的であり、現在が何処までも絶対現在的であればあるほど、認識が客観的ということができる。例えば、物理学者が実験をするというのも、物理学者が物理学的世界の個人的自己として行為的直観的に物を把握することでなければならない。物理学的世界といっても、この歴史的世界の外にあるのではなく、歴史的世界の一面たるに過ぎない。矛盾的自己同一的現在が形を有《も》たない世界の生産様式が非創造的である、同じ生産様式が繰返される。斯く見られた時、歴史的世界は物理学的世界であるのである、而してまた歴史的世界は一面に何処までもかかる世界でなければならない。我々も身体的には物質的としてかかる世界の中にいるのであり、我々は社会的制作的に歴史的生命の始から既に物理学的に世界を見ているのである。今日の物理学というも、かかる立場から発展し来ったものでなければならない。我々が個人的自己として世界に対するということは、世界が唯一的に我々に臨むことである。世界が唯一的に我々に臨む所に、我々の個人的自己があるのである。今日の物理学的世界が唯一的に我々に臨む所に、今日の物理学的個人的自己というものがあり、行為的直観的に今日の物理学的知識が把握せられるのである。
過去未来合一的に絶対矛盾的自己同一として、即ち絶対現在として自己自身を形成する世界は、何処までも論理的である。かかる世界の自己形成の抽象的形式が、いわゆる論理的形式と考えられるものである。絶対矛盾的自己同一的現在の意識面において世界は動揺的である。我々は過去から未来への因果的束縛を越えて思惟的であると考えられる、自由と考えられる。行為的直観的現実をヒポケーメノンとして種々なる判断が成立する。我々が個物的なればなるほど、斯《か》くいうことができる。世界は種々に表現せられる。モナドが世界を映すと考えられる如く、個物の立場から全世界が表現せられるということができる。個物の立場からの世界の表現即ち判断が、行為的直観的に即ちポイエシス的に証明せられるかぎり、それが真であるのである。我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、行為的直観的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。
我々が世界の形成要素として個物的なればなるほど、矛盾的自己同一的に自己自身を形成する唯一なる世界に
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