ヘ、知識とは固《もと》歴史的制作的自己としての我々のポイエシスより、何処までも行為的直観的に実在を把握し行くことでなければならない。問題は歴史的生命の地盤から起るのである、抽象論理的に起るのではない。しかし斯《か》くいうのは、真理を実用主義的に考えるのではない。歴史的生命とは矛盾的自己同一的現在の自己形成としてイデヤ的であるのである。

 私の行為的直観というのは、判断論理を媒介とせないで、唯無媒介的に、単に受働的ないわゆる直観から直観へと移り行くことを意味するのではない。矛盾的自己同一的現在の世界においては、何処までも個物と世界との対立がなければならない、作られたものと作るものとの対立がなければならない。かかる立場からは、直観と行為とは何処までも対立するものでなければならない。その間には単に主体的立場から考えられる相互否定的対立以上のものがなければならない。そこには絶対の過去と未来との対立がなければならない。無限なる歴史的過去が絶対現在において無限に我々に迫りおるのである。無限の過去が現在において我々に対するということは表現的ということであり、それは単に了解の対象と考えられるが、何処までも我々に対するものが表現的に我々に迫るということ、即ち表現作用的に我々を動かすということが、物が直観的に我々に現れることである。我々の自己の存在そのものを動かすものが、直観的に見られるものである。上に絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界においては環境が自己否定的に自己自身を主体化することによって真の環境となるといったが、我々の自己が自己矛盾的にその中に包まれる世界が我々に直観的な世界である。作用が自己矛盾的に対象に含まれ、見ることから働く世界である、いわば我々が何処までもその中に吸い込まれ行く世界である。
 絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのでもない、また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである。作用が自己矛盾的に対象に含ま
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