愚禿親鸞
西田幾多郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)拘《かかわ》らず
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此《この》智|此《この》徳
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](『宗祖観』大谷学士会発行、明治四十四年四月、第一巻)
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余は真宗の家に生れ、余の母は真宗の信者であるに拘《かかわ》らず、余自身は真宗の信者でもなければ、また真宗について多く知るものでもない。ただ上人《しょうにん》が在世の時自ら愚禿《ぐとく》と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿の二字は能《よ》く上人の為人《ひととなり》を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の本質を示すものではなかろうか。人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身《ほんしん》一回、此《この》智、此《この》徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具《そな》え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない。コペルニカスの地動説が真理であろうが、トレミーの天動説が真理であろうが、そういうことは何方《どちら》でもよい。徳行の点から見ても、宗教は自ら徳行を伴い来るものであろうが、また必ずしもこの両者を同一視することはできぬ。昔、融禅師《ゆうぜんじ》がまだ牛頭山《ごずさん》の北巌に棲《す》んでいた時には、色々の鳥が花を啣《ふく》んで供養《くよう》したが、四祖大師《しそだいし》に参じてから鳥が花を啣んで来なくなったという話を聞いたことがある。宗教の智は智その者を知り、宗教の徳は徳その者を用いるのである。三角形の幾何学的性質を究めるには紙上の一小三角形で沢山であるように、心霊上の事実に対しては英雄豪傑も匹夫匹婦《ひっぷひっぷ》と同一である。ただ眼は眼を見ることはできず、山にある者は山の全体を知ることはできぬ。此《この》智|此《この》徳の間に頭出頭没する者は此《この》智|此《この》徳を知ることはできぬ。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖《けんがい》
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