に手を撒《さっ》して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以《ゆえん》を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。他力といわず、自力といわず、一切の宗教はこの愚禿の二字を味うに外ならぬのである。
しかし右のようにいえば、愚禿の二字は独り真宗に限った訳でもないようであるが、真宗は特にこの方面に着目した宗教である、愚人、悪人を正因《しょういん》とした宗教である。同じく愛を主とした他力宗であっても、猶太《ユダヤ》教から出た基督《キリスト》教はなお、正義の観念が強く、いくらか罪を責むるという趣があるが、真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀《みだ》はただ汝のために我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。『歎異抄』の中に上人が「弥陀の五劫思惟《ごこうしゆい》の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」といわれたのがその極意を示したものであろう。終りに宗祖その人の人格について見ても、かの日蓮上人が意気|冲天《ちゅうてん》、他宗を罵倒し、北条氏を目して、小島の主らが云々と壮語せしに比べて、吉水一門の奇禍に連《つらな》り北国の隅に流されながら、もし我《われ》配所に赴かずんば何によりてか辺鄙の群類を化せんといって、法を見て人を見なかった親鸞上人の人格は頗る趣を異にしたものといわねばならぬ。風|号《さけ》び雲走り、怒濤澎湃《どとうほうはい》の間に立ちて、動かざること巌《いわお》の如き日蓮上人の意気は、壮なることは壮であるが、煙波|渺茫《びょうぼう》、風|静《しずか》に波動かざる親鸞上人の胸懐はまた何となく奥床《おくゆか》しいではないか。
[#地から1字上げ](『宗祖観』大谷学士会発行、明治四十四年四月、第一巻)
底本:「西田幾多郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年10月16日第1刷発行
1998(平成10)年9月16日第3刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集 第一巻」岩波書店
1987(昭和62)年発行
初出:「宗祖観」大谷学士会
1911(明治44)年4月
入力:アキトチ
校正:鈴木厚司
2003年10月23日作成
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