我が子の死
西田幾多郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)東圃《とうほ》君

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その間|一毫《いちごう》も

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(例)[#地から1字上げ]

 [#…]:返り点
 (例)征馬不[#レ]前人不[#レ]語
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 三十七年の夏、東圃《とうほ》君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図《はか》らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己《おの》が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。
 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲《かなしみ》を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立《しゅったつ》の朝、君は篋底《きょうてい》を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記《しゅうえんき》なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡《すべ》て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能《あた》わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
 余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪《た》えなかった、特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、しかして直《ただち》にこれを東圃君に送って一言を求めた。当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李《こうり》の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳《つまびら》かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法《じょうほう》なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、余の心は君の心の如くに動いたのである。
 回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。稚心《おさなごころ》にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ一人の弟は敵塁《てきるい》深く屍を委《まか》して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失《きえう》せないのに、また己《おの》が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いずれ疎《そ》なるはなけれども、特に親子の情は格別である、余はこの度《たび》生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。君の亡くされたのは君の初子《はつご》であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情|濃《こま》やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといっ
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