て慰めた人があった、氏はこれに答えて“How can I love another Child? What I want is Sonia.”といったということがある。親の愛は実に純粋である、その間|一毫《いちごう》も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤《おもかげ》を思い出《い》ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇《きかつ》は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡《すべ》ての傷を癒やすというのは自然の恵《めぐみ》であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵《きず》や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉《いしゃ》である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう、しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である、目的|其者《そのもの》である。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償《つぐな》うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。しかしてこの人間の絶対的価値ということが、己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固《もと》より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、学問も事業も究竟《くっきょう》の目的は人情のためにするのである。しかして人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。徒らに高く構えて人情自然の美を忘るる者はかえってその性情の卑しきを示すに過ぎない、「征馬不[#レ]前人不[#レ]語、金州城外立[#二]斜陽[#一]」の句ありていよいよ乃木将軍の人格が仰がれるのである。
 とにかく余は今度我子の果敢《はか》なき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利《みょうり》を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓《いっしゃく》の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡《すべ》ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処《ここ》には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。
 物|窮《きわ》まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて、何らかの慰安の途を求めしめるのである。夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、いかにも断腸の思いがする。しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。永久なる時の上から考えて見れば、何だか滑稽にも見える。生れて何らの発展もなさず、何らの記憶も遺さず、死んだとて悲んでくれる人だにないと思えば、哀れといえ
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