ばまことに哀れである。しかしいかなる英雄も赤子も死に対しては何らの意味も有《も》たない、神の前にて凡て同一の霊魂である。オルカニヤの作といい伝えている画に、死の神が老若男女、あらゆる種々の人を捕え来りて、帝王も乞食もみな一堆《いったい》の中に積み重ねているのがある、栄辱《えいじょく》得失もここに至っては一場の夢に過ぎない。また世の中の幸福という点より見ても、生延びたのが幸であったろうか、死んだのが幸であったろうか、生きていたならば幸であったろうというのは親の欲望である、運命の秘密は我々には分らない。特に高潔なる精神的要求より離れて、単に幸福ということから考えて見たら、凡《すべ》て人生はさほど慕うべきものかどうかも疑問である。一方より見れば、生れて何らの人生の罪悪にも汚れず、何らの人生の悲哀をも知らず、ただ日々|嬉戯《きぎ》して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美くしい感じがする、花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う。
最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。
[#地から1字上げ](「藤岡作太郎著『国文学史講話』序」明治四十年十一月稿、第一巻)
底本:「西田幾多郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年10月16日第1刷発行
1998(平成10)年9月16日第3刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集 第一巻」岩波書店
1987(昭和62)年発行
初出:「国文学史講話」藤岡作太郎著
1907(明治40)年11月
入力:アキトチ
校正:鈴木厚司
2003年10月23日作成
2004年2月16日修正
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