デカルト哲学について
西田幾多郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)デカルト哲学は棄《す》てられた。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自己|撞着《どうちゃく》である。

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(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)証明 〔de'montrer〕 の仕方に
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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        一

 カント哲学以来、デカルト哲学は棄《す》てられた。独断的、形而上学的と考えられた。哲学は批評的であり、認識論的でなければならないと考えられている。真の実在とは如何《いか》なるものかを究明して、そこからすべての問題を考えるという如きことは顧みられなくなった。今日、人は実践ということを出立点と考える。実践と離れた実在というものはない。単に考えられたものは実在ではない。しかしまた真の実践は真の実在界においてでなければならない。然《しか》らざれば、それは夢幻に過ぎない。存在の前に当為があるなどいって、いわゆる実践理性の立場から道徳の形式が明《あきらか》にせられたとしても、真の実践は単に形式的に定まるのではない。此《ここ》にも内容なき形式は空虚である。人は真実在は不可知的というかも知らない。もし然らば、我々の生命も単に現象的、夢幻的と考えるのほかない。そこからは、死生を賭《と》する如き真摯《しんし》なる信念は出て来ないであろう。実在は我々の自己の存在を離れたものではない。然らばといって、たといそれが意識一般といっても主観の綜合統一によって成立すると考えられる世界は、何処《どこ》までも自己によって考えられた世界、認識対象界たるに過ぎない。かかる対象的実在の世界からは、実践的当為の出て来ないのはいうまでもない。デカルトの如く、すべての実在を疑い得るであろう。しかし自己自身の存在を疑うことはできない。何となれば、疑うものはまた自己なるが故である。
 人は自己が自己を知ることはできないという。かかる場合、人は知るということを、対象認識の意味においていっているのである。かかる意味において、自己が自己を知るということのできないのはいうまでもない。自己は自己の対象となることはできない。自己の対象となるものは自己ではない。然らば自己は単に不可知的か。単に不可知的なるものは、無と択《えら》ぶ所はない。自己は単なる無か。自己を不可知的というものは、何物か。対象的に知ることのできない自己は、最も能《よ》く自己に知れたものでなければならない。一方に我々は自己が自己自身を知ると考える、かかる意味において知るとは、如何なることを意味するのであるか。かかる意味において知るということが、先ず問題とせられなければならない。対象認識もそこからであろう。対象認識の立場から出立する人は、自己そのものの存在ということも、時間空間の形式に当嵌《あては》めて対象的に考える。心理的自己としては、我々の自己も爾《しか》考えることができる。しかしそれは考えられた自己であって、考える自己ではない。何人《なんぴと》の自己でもあり得る自己である。自覚的自己の自己存在形式ではない。
 知るということは事実ではあるが、単に時間空間的事実としては、知るということは考えられない。知るものは、時空の世界においてあるとともに、これを越えたものでなければならない。如何にして時空の世界の中にありて、しかもこれを越えるということが可能であるか。それは表現的関係によって考えられねばならない。自己が世界を表現するとともに、世界の自己表現の一立脚点である。かかる矛盾的自己同一の形式によって、我々の自己の自覚的存在が考えられるのである。世界の内にあるとともに、いつも世界を越えている。かかる内在即超越、超越即内在の形式によって、一度的なる唯一的自己、歴史的自己というものが考えられるのである。自覚的自己は履歴を有《も》ったものでなければならない。時間空間の形式というものも、自己表現的世界の自己形成の形式として、論理的に考えられるのである。かかる世界は多の自己否定的一として時間的に、一の自己否定的多として空間的であるのである。表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、知るものと知られるものとが一であるのである。而《しか》してあるということが知るということであり、知るということがあるということである。故に自覚においては、存在が本質であり、本質が存在である(essentia=existentia)。かかる実在の立場から無限の当為が出て来るのである。我々の自己が唯一的に個となればなるほど、自己自身を限定する事として、絶対の当為に撞着《どうちゃく》するのである。あるいは我々の自己の自覚を離れて、単なる物の知識、単なる物の存在というものもあるではないかといわれるかも知れない。しかしそれらの基礎附けも、深く考えれば考えるほど、かつてデカルトが試みた如く自覚からでなければならない。
 哲学の問題は、如何《いか》にして純粋数学、純粋物理学が可能なるかというに始まるのでもなく、単に知識がある、知識は如何にしてというに始まるのでもない。科学というも、歴史的世界において発展し来ったものである。認識論者が知るという時、既に対象認識の意味に限定しているのである。知る者そのものは既に除去せられているのである。しかし知るものなくして知るということは考えられない。此《ここ》に深い矛盾がある、問題がある。しかも一度対象認識の立場に立った以上、何処《どこ》までも知るというものは視野に入って来ない。実在界とはいわゆる認識形式に当嵌《あてはま》ったもののみである。知られたものである、知るものではない。私は古来の伝統の如く、哲学は真実在の学と考えるものである。それはオントース・オンの学、オントロギーである。そこに哲学の本質があるのである。哲学は、その立場から、種々なる問題を考えるのである。知識を論ずるのが知識哲学であり、道徳を論ずるのが道徳哲学である。批評哲学とは知識に対する深い反省である。この故にそれは哲学である。それは知識と真実在との深刻なる対決である。しかし真実在の問題は不可知的なる物自体の問題として捨てられた。問題を打ち切ってしまえばそれまでであるが、そこに多く問題が残されているといわざるを得ない。哲学は主観主義的となった。無論それを心理主義的というのではないが、知識の客観性といっても、認識主観の当為に立っているのである。真実在を論ずるものは、形而上学的として排斥せられてしまった。
 然らば真実在とは如何なるものであろうか。それは先ずそれ自身に於《おい》てあるもの、自己の存在に他の何物をも要せないものでなければならない(デカルト哲学の substance)。しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。自己否定を他に竢《ま》たなければならない。何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。
 私は此《ここ》からして自《おのずか》ら真実在というものが如何にして我々に求められるかという哲学的方法が出て来ると思う。それはかつてデカルトが『省察録』において用いた如く、懐疑による自覚である、meditari である(野田又夫『デカルト』)。それは徹底的な否定的分析でなければならない。彼は『省察録』の第二答弁において証明 〔de'montrer〕 の仕方に二通りあるという。一つは分析 〔analyse ou re'solution〕 であり、一つは綜合 〔synthe`se ou composition〕 である。分析とは、物が方法的に見出され、如何に果が因に因《よ》るかを見る方法である。読者はそれに従って、注意深く、含まれたる凡《すべ》てに目を注ぐならば、あたかも自分が見出した如く完全に証明せられ、理解せられる方法である。綜合というのは、これに反し定義、要請、公理等の過程によって結論を証明する、いわゆる幾何学的方法である。而《しか》して彼は彼の『省察録』において専《もっぱ》ら分析的方法を取ったという。何となれば、幾何学においては、その根本概念が感官的直観と一致するが故に、それは何人にも受入れられるが、形而上学的問題においては、最始の根本概念を明晰《めいせき》に判明に把握することが困難なのである。本来の性質からは、それは幾何学のものよりも、一層明晰なものなのであるが、我々が感官から得た、幼時から馴《なら》された、種々なる先入見と一致せないかに見えるものから非常に注意深く、精神をできるだけ感官から引離そうと努力する人によってのみ理解せられるのである。単にそれだけを主張するならば、何事にも反対好きな人は容易に否定するであろうという。デカルトは此《ここ》に人に説くためにということを主として考えているようであるが、徹底的な懐疑的自覚、何処までも否定的分析ということは、哲学そのものに固有な、哲学という学問そのものの方法でなければならない。私は哲学の方法を否定的自覚、自覚的分析と考えるものである。
 自己自身の存在に他の何物も要せない、自己自身によってある真実在は、自己自身を理解するもので、自覚するものでなければならない。スピノザの如くそれ自身によって理解せられるといっても、既に理と事とが二つになる、本質と存在とが対立する。単にそれ自身によって理解せられるものは属性である、実体ではない。無限なる属性の基体としての神は、コンポッシブルの世界の主体、事の世界の主体でなければならない。真にそれ自身によってあり、それ自身によって理解するものは、事が事自身を限定する、純粋事実というものでなければならない。純粋行為というも、既に二次的である。かかる実在が明《あきらか》にせられるには、否、かかる実在が自己自身を明にするのは、絶対否定的自覚によるのほかはない。そこに哲学は宗教に通ずるものがあるのである。大疑の下に大悟ありという。哲学はかかる立場において、知識の根本原理を把握するのである。故に哲学の最高原理は、矛盾的自己同一的たらざるを得ない。
 知識は単に形式論理の立場から成立するのではない。知識は何らかの意味においての直観を含んでいなければならない。然らざれば、客観的知識ではない。私の直観というのは、終が始に含まれている過程である。故に一々の過程が始と終とを含んでいる。目的的作用というものにおいても、あるいは斯《か》くいい得るであろう。しかし直観においては、一々の点が始であり終であるのである。それは創造的過程であるのである、故に自覚的であるのである。時を媒介とするのではない、時の過程はそこからであるのである。故に直観は無限の過程である。私はこれを、自己自身によってある実在が、自己の中に自己を映す無限の過程という。直観ということは、単に過程が否定せられて、一度的に最終の真理が見られるということではない。それは極
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