sきわ》めて幼稚な神秘的な考《かんがえ》である。芸術的直観といえども、そうしたものではない。それは無限の過程であるのである。物理学というものも、歴史的身体的なる我々の感官の無限なる行為的直観の過程に基《もとづ》くのである。直観的過程において一々の点が始であり終であり、創造的なる所から、無限なる疑問が起るのである。単なる否定から何物も出て来ない。単なる形式論理の立場からは、如何なる問題にても呈出することができる。しかしそれは学問的問題となるのではない。問題は、我々の自己が真実在の自己表現の過程となる所から起るのである。答は問所にありとも考えられる。
 我々の知識は単なる物の世界から起るのでもなく、単なる自己の世界から起るのでもない。従来の慣用語を以《もっ》ていえば、主観客観の相互限定から起るのである。而《しか》してそれは我々の自己が、自己自身によって自己自身を限定するものの自己表現の過程として、真実在の自己表現の一立脚地となるということにほかならない。故に我々の自己は真実在の自己限定として真に実在的なればなるほど(即ち真に個なればなるほど)、我々の自己は真理を求めるのである。真の実践もそこから出て来るのである。真理は相対論者のいう如く相対的なものではなく、いわゆる直覚論者のいう如くに一度的に決定的なものでもない。問題は無限の解決を含み、解決は無限の問題を含んでいるのである。私がかつて歴史的世界は課題において自己同一を有《も》つといったことも、此《ここ》から理解せられるであろう。右の如くなるを以て、すべて我々の真理探求は、否定的分析、懐疑的自覚といってよい。科学は単なる判断的否定でもなければ、分析でもない。科学的否定とは、行為的直観の立場から我々の自己の因襲的な先入見、独断を否定することでなければならない。分析はデカルトの分析の意味でなければならない。否定のための否定、分析のための分析は、懐疑のための懐疑と択《えら》ぶ所がない。故に科学的知識成立には、先ず行為的直観の立場がなければならない。
 哲学は右の如き意味において、真に自己自身によってあり、それ自身によって自己自身を限定する根本的実在の自己表現の過程として、何処までも否定的自覚、自覚的分析でなければならない。而してそれはすべての実在の根柢、実在の実在の学として、見るものなくして見る立場、世界が自己自身を映す立場でなければならない。そこには何らの意味においても対象的なるもの、否、基体的なるものがあってはならない。推論によって求められるものがあってはならない。自己自身の証明を他に求めるものは、自己自身によってあるものではない。主語となって述語とならないといっても、それは自証するものではない。哲学の対象は自己自身を自証するもの、対象なき対象でなければならない。カントが形而上学として排斥したのは、推論によって外に実在を求める形而上学である。そこでは哲学は科学に堕するのである。而してそれは単に推論的に、行為的直観的たる経験を離れるかぎり、何らの客観性をも有《も》つこともできない。哲学は空想に過ぎない。哲学は対象なき対象の学、自証の学でなければならない。そこに科学と異なった哲学そのものの存在理由があるのである。科学というのは、自己表現的世界が行為的直観的に自己自身を表現した時に成立するのである。科学の世界は、形が形自身を限定する世界である。その根柢には、見るものなくして見る、世界が自己自身を映すということがなければならない。哲学が科学の根柢とならなければならない所以《ゆえん》は、此《ここ》にあるのである。この故に科学の方法は行為的直観である。哲学の方法は自覚である。而して両者共に無限の過程である。右にいった如く、私の行為的直観というのは無限の過程である。否定的自覚というのも無限の過程である。アランのいう如く、懐疑的自覚は幾度も繰返されなければならない。
 哲学の立場は、見るものなくして見る立場、考えるものなくして考える立場として、そこに自己自身を限定する自覚的原理を把握するのである。それは自己自身によって自己自身を限定する真実在の原理として、何処までも深く概念的に把握せられるものでなければならない。これを実体化する時、それまでである、死んだ概念に過ぎない。私は古来、哲学はかかる立場において始まり、かかる立場において今日まで発展し来ったと思う。ソクラテスの哲学もギリシヤ時代において懐疑的自覚の立場において始まり、自己自身を限定する実在の原理はプラトンのイデアにおいて把握せられた。しかしギリシヤのポリス的世界の時代においては、未《いま》だ真の個人的自覚というものはなかった。それは働くものの世界ではなかった。ロゴス的実在の世界、見られるものの世界であった。アウグスチヌスの自覚の哲学は、キリスト教的実在即ち歴史的実在を把握したとも考え得るが、中世哲学は宗教哲学であった。実在そのものを問題としたのではない。実在の考え方はギリシヤ的なるものを出なかった。中世哲学の実在はキリスト的・ギリシヤ的であったということができる。中世的世界が行詰《ゆきづま》って近世科学の時代に入った時、自己表現的なる歴史的実在の世界は、自己自身に返って新なる哲学の出立点を求めた。中世において人格的に自覚した歴史的実在の世界は、更に自然的自覚を求めて来たともいい得る。我々の自己は、そこに深く自己自身の根柢に返って、新なる実在の把握を求めた。これがデカルト哲学の課題であった。デカルトの世界は近世科学の世界であった。しかしデカルト哲学には、デカルトからライプニッツに至るまでも、なお背後に中世哲学的なものがあった。神と自己との関係において、何処までも不徹底である。私はカント哲学に至って、純粋な科学の哲学に入ったと思う。カント哲学は科学的自己の自覚の哲学である。しかし単なる科学の世界は、自己自身によってあり自己自身を限定する真実在の世界ではない、真の具体的実在の世界ではない。最初にいった如く、カントはこの問題を打切ったに過ぎない。実践といっても、そこからでは形式的規範が考えられるだけである。カントの実践哲学は、近代社会における市民道徳の基礎附けである。私は決してカントの道徳的規範を無視するものではないが、今日の歴史的世界は新なる哲学の出立点と新なる実践原理とを求めるのである。我々はなお一度デカルトの出立点に返って考えて見なければならない。

        二

 哲学の問題は自己自身によってあり、自己自身を限定する真実在の問題であり、その方法は何処《どこ》までも徹底せる懐疑的自覚でなければならない、詳しくいえば絶対の否定的自覚、自覚的分析でなければならない。我々が真に生死を賭《と》し得る実践も、此《ここ》から出て来るのである。私はかかる意味において、デカルトの問題と方法とに同意を表するものである。哲学に入るものに、彼の『省察録』の熟読を勧めたい。しかし私は彼は遂《つい》にその目的と方法に徹底せなかったと考えるものである。彼はアリストテレス的論理を脱しなかった。実在を何処までも主語的なるもの、基本的なるものに求めた。そこから彼はいわゆる独断的形而上学に陥った。カントの排斥を受けねばならなかった所以《ゆえん》である。
 真に自己自身によってあり、自己自身を限定するものは、それ自身に於《おい》てあり、それ自身によって理解せられるのみならず、自己自身を理解するもの、自覚するものでなければならない。然《しか》らざれば、それは我々の自己に対立するもの、対象的有たるに過ぎない。コーギトー・エルゴー・スムといって、外に基体的なるものを考えた時、彼は既に否定的自覚の途《みち》を踏み外《はず》した、自覚的分析の方法の外に出たと思う。無論それはスピノザのいう如く一つの命題としてスム・コギタンスとしても、問題はこのスムになければならない。我々の自己自身を、デカルトの如き意味において一つの実体と考えるならば、それにおいての内的事実として、いわゆる明晰《めいせき》判明なる真理も、主観的たるを免れない。デカルトも明《あきらか》にこれを意識した。数学的真理の如きも魔の仕事かも知れないとまで考えた。彼は遂に知識の客観性を、神の完全性に、神の誠実性に求めた。デカルトのかかる考といい、ライプニッツの予定調和といい、時代性とはいえ、鋭利なる頭脳に相応《ふさわ》しからざることである。デカルトの如く我々の自己を独立の実体と考える時、神の存在との間に矛盾を起さざるを得ない。デカルトは「第三省察」において神の存在を論じた。これは結果による証明といわれる。一つは我々の自己に於《おい》てある神の観念の原因を考えることからであり、一つは我々の自己の存在の原因を求めることからである。無から何物も生ぜない。しかも有限なる自己の内に無限なる神の観念の原因は求められない。また現在の自己の内に次の瞬間への自己の存続の原因は求められない。そこに創造的なるものが働かねばならない。かかる原因として我々は神の存在を認めねばならないという。しかし斯《か》く考える時、自己はそれ自身によってある実在ではない。それ自身によってある実在は、神のみでなければならない。それとともに我々の自己の独立性は失われて、我々の自覚は消されてしまわなければならない。而《しか》して神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。一体、デカルト哲学において原因というのは、自己自身によってあり、自己自身によって限定するものとして、スピノザのカウザ・スイという如きものであると思う。本質即存在、存在即本質の根柢という意義でなければならない。それには先ず本質と存在との関係が究明せられねばならない。
 デカルトは「第五省察」において再び神の存在問題に触れている。そこでは認識論的である。明晰にして判明なるものが真である。神の存在ということは、少くとも数学的真理が確実であると同じ程度において自分に確実である。然るに三角形の三つの角の和が二直角であるということが、三角形の本質から離すことができない如くに、神の存在ということは、神の本質から離すことはできぬ。存在ということの欠けた最高完全者というものを考えることは、谷のない山を考える如く自己|撞着《どうちゃく》である。故に神は存在する。而して完全無欠なる神は欺かない。そこから我々の自己において明晰判明なる知識の客観性を基礎附けるのである。最高完全者としての神の観念は存在を含むという神の存在の証明は、百円の観念は百円の金貨ではないという如きを以て一言に排斥すべきではない。神はカント哲学の形式によって実在するというのではない。実在の根柢を何処《どこ》までも論理的に考える時、私は「最高完全者は存在する」という理由も出て来ると思う(Leibniz,“Quod Ens Perfectissimum existit.”)。しかし神の誠実性を以て知識の客観性を基礎附けるという如きは、何らの論理性を有《も》たない。主語的論理の破綻《はたん》を示すものである。明晰にして判明なるものは、それ自身によって理解せられるもの、十全なる知識として、真にあるものでなければならない。神はそれ自身を表現するものである。我々の観念が神を原因とするかぎり明晰判明である、十全である。要するにコーギトー・エルゴー・スムから出立したデカルト哲学は、スピノザに至らなければならない。「すべてあるものは神に於《おい》てあり、神なくして、何物もあることも、理解せられることもできない」(Ethica. Prop. 15 p. 1)というに至って極まるのである。スピノザ哲学は、デカルトの実体から出立して、その主語的論理の極に達したものということができる。此《ここ》に至って、全然我々の自己の独自性は失われて、我々は実体の様相となった。我々は神の様相としてコーギトーするのである。我々の観念が神に於《おい》てあるかぎり、我々は知るのである。斯くして我々の自己の自覚が否定せられるとともに、神は対象的存在として我々の自覚の根柢たる性質を失った。最も具体的
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